人柄選挙!?

本日行われた東京都知事選は、石原慎太郎の3選で幕を閉じた。相変わらずの投票率の低さも気になるが、NHK出口調査では、都知事選における有権者の選定基準の約3割が“人柄”だということには驚きだ。

比較対象にはならないかもしれないが、2005年9月11日の郵政選挙(衆議院議員選挙)とは全く異なる性質の選挙だったといえよう。

ご本人は、良識ある都民が石原都政を評価した結果だとご満悦なので、“人柄”を理由に選んだ有権者が意外に多いことを伝えたい心境だ。

今回の都知事選の争点は、どれか一つの政策に着目された訳ではなく、東京都が抱える様々な問題について、各候補者の公約がぶつかり合った。都民それぞれが重点を置く政策もバラバラで、一人の候補者の全ての政策に賛成できる訳でもない。
そのためか、有権者の多くが票を投じる際、候補者を総合的に判断しようとすると、最終的に“人柄”という感覚的なものの影響が大きいのではないか。

だが、“人柄”で石原慎太郎を選んだ!?

有権者石原慎太郎のことをどれくらい知って人柄を判断できたのか。また、他の候補者である浅野史郎吉田万三の人柄をどのように判断できたのだろうか。
石原慎太郎がいい人かどうかは私は知らない。浅野史郎吉田万三しかりである。

“人柄”で判断したというが、それは“知名度”と言い換えられるだろう。NHK出口調査項目も聞こえのよい日本語を使いたがるものだ。

今回の都知事選挙は、一つの政策がクローズアップされることなく、多くの政策が論争された。地方自治体や国全体が抱える問題は複雑多岐でシンプルに納まらないが、郵政選挙や新幹線問題に着目した嘉田由紀子滋賀県知事選挙のように、有権者が判断しやすい選挙も必要だ。

有権者にとって判断しにくい選挙であると、結局、知名度選挙に終わってしまう。

そうこう言っているうちに、石原慎太郎東京オリンピック実現を声高に叫び出す。一体何年先になることやら。今回の選挙が最後と言いつつも、悲願達成のため彼は4期目も目指すかもしれない。

やっぱりオリンピック選挙にすれば、よかったのに・・・。
しがない有権者の独り言。

(敬称略)

3年勤めた若者より

気付けば、早いもので今日は3月31日。社会人になって、そして、今の会社に勤めて丸3年になる。世間的にいう“辞め頃”だ。新卒者の3割が3年以内に勤めた会社を去る時代である。

イマドキの若者は我慢が足りないからだろうか?年功序列をベースにした成果主義の犠牲になりたくないからだろうか?

これらに加え、私たちの世代は働く上での支軸が定まっていないことが離職率の高さに当てはまると思う。

思い返せば、学生時代に受けた企業という企業に志望動機を尋ねられた。

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(面接官)「当社に応募した理由は何ですか」
――○○がやりたいからです。

(面接官)「どうして」

――△△が好きだからです。
(面接官)「どうして」

――□□だからです。
以下、続く・・・。

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また、自らのキャリアビジョンについても尋ねられる。

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(面接官)「10年後はどうなっていたいですか」
――☆☆となっていたいです

(面接官)「そのために応募した職種でどのようなキャリアを積みたいですか」
――●●と考えています。
以下、続く・・・。

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正直、根掘り葉掘り尋ねられても答えられないこともあるし、言葉にできない想いもある。けれど、面接官は具体的な答えを要求する。いつも理論武装をして面接に臨まなけばならなかった。

ところが、いざ会社に入ってみると、あれだけ志望動機やキャリアビジョンを尋ねられたにもかかわらず、決まったレールが敷かれていた。

組織の枠組みの中で業務を遂行していく中、就職活動期に志望動機をイヤというほど考えたせいか、つい思ってしまう。

――この仕事が自分のやりたいことなのか。

もちろん目先の仕事だけで判断している訳ではない。何にでも下積み時代は必要だ。だが、その組織の中、さらには会社の中で、自分がどのようになっていくのかということを思い描いたときに、ギャップが生じてしまう。

もしかしたら、それは贅沢な悩みなのかもしれない。

マズロー欲求段階説(注)”に当てはめると、現代の若者の多くが、“自己実現”を目指しているのではないか。

(注)人間の欲求段階を生理的欲求、安全の欲求、親和の欲求、自我の欲求、自己実現の欲求としている。

戦後の日本社会では、衣食住を確保することで精一杯。経済が成長するにつれ、日本全体が豊かになっていくと、個々の集団帰属の欲求が深まり、物欲も増していく。バブルが崩壊し不況に入っても、最低限の生活が確保されている若者は多い。

企業側が採用する際、志望動機を重視するようになったことの影響も大きいが、私たち若者の欲求は自己実現へと向かっている。

自己実現は一番難しい。そもそも自分が本当にやりたいことを見つけられる人間はどれほどいるのだろうか。自分がやりたいことがわかっても、実現させることは更に困難だ。何をすれば自己実現となるかということも、個人の価値観によって異なるし、その時々によって個人が抱く価値観も変わってくる。実に厄介な話である。

さらに、失われた10年を見てきただけに、ただ自己実現を目指すだけでなく、足元の生理的欲求や安全の欲求も満たすことを常に意識している。

マズロー欲求段階説の全ての欲求を満たす会社は存在しないように思う。

ところで、どうして入社後“3年”以内がフォーカスされるのか。
“石の上にも3年”。“3年目の浮気”。中学校も“3年”だ。日本人は、3年で一区切りという感覚があるのだろう。純粋に一つのことをして“飽き”がくるのも3年なのかもしれない。

自分が進むべき道を考え、自問自答の日々に、“3年”という重みがのしかかる。

自信?いきなり、家事、おふくろ

慣れないことをすると疲れる。

私は、料理の経験が皆無に等しい。
25歳にもなり、この状態は、世間的に‘やばい’らしい。流石の両親も今更ながら娘のことを‘やばい’と思っているらしい。

そんな状況の中、突然母親が10日余り家を空けることになった。人生で一、二を争うピンチである。料理だけでなく、家事自体が覚束ない。出掛けの母親に洗濯機の使い方を教わり、必死でノートに書き留めた。母が作り置きしてくれたカレーが底を尽きると、いよいよ私の出番である。

ぎこちない手で包丁を握る。生まれて初めて切る食材ばかり。自ずとへっぴり腰になる。『うたばん』(2007年3月8日放送)で、料理のできない宇多田ヒカルも同じ格好になっていたことを思い出す。同年代の女性で自分と同じような人がいる!と喜んで見ていた頃が懐かしい。
稼ぎの桁がかなり違うが、彼女も私も働く女性。

頭では理解していたつもりでも実際に体験し、仕事と家事の両方をこなすことは容易ではないと痛感した。

カスピ海ヨーグルトを途絶えないように注意し、ゴミの日の朝に家中のゴミを取り集める。食パンは、少し離れたスーパーマーケットが安く売っている。が、その前に新聞の折込チラシをチェックしないと・・・。

家に帰っても、落ち着かず常に次のことを考える日々。疲れが蓄積されていく。

男も女も関係なく、家事はこなせるにこしたことはない。特に、共働きの家庭は、家事を協力すべきである。私も問題だが、家事を働く妻に任せきりな夫も問題だ。

明日はやっと母親が帰ってくる。今か今かと待ちわびる私に父親が言う。
 
「“百里を行く者は九十を半とす”だぞ」
 明日は長い一日となりそうだ。

そうだ、映画に行こう

映画館で上映時間を待つときに感じる高揚感。映画館で観る映画は、何ともいえない味わいがある。
大きいスクリーンや精度の良いサウンド。映画館の設備的な要素も含まれるが、何といっても、多くの人と一緒に映画を観るからだろう。同じ時間、同じ空間に集まった見ず知らずの人々。同じ映画を観て、感動を共有する。

みんなが発する「気」が、自分の「気」と同調し、感情が増幅を見せる。暗闇で観ることで、より感覚が研ぎ澄まされていく。

やくざ映画が全盛だった頃、映画を観終わった誰もが高倉健の顔になって映画館から出てきたという風刺画があったそうだ。まさに、観客が一体となった映画だったのだろう。

人の「気」は偉大な力を持ち、ときに水をも浄化するという。もちろん、悪く作用してしまうこともある。

映画は心の栄養剤。

観客全員で映画に最後の味付けを加えたい。

貫いてほしかった品格

 日本テレビ系で放送されたドラマ「ハケンの品格」の最終回にはがっかりしてしまった。篠原涼子演じるスーパー派遣大前春子が見せる人間味が、最高潮に達しったのだ。

 それまでも、自分が絵が下手なことに憤慨して取り乱したり、“キャラを貫く”ためだと資格を持っていない自動車修理に挑んだりと、スーパー派遣の綻びを少しずつ見せてはいた。

 “キャラを貫く”のであれば大前春子が主張してきた数々のハケンのモットーを最終回まで貫いてほしかった。

 最終回のラストでは、好きな男の側にいたいために、名古屋まで行く。そして、「あなたに社長賞を取らせるために来ました」と愛の告白にも等しい言葉を投げかける。社内恋愛は、社内の人間関係を複雑にする要因の一つなのに。
 え?会社の人間関係が面倒くさくなかったの?

 しかも、人材派遣会社を通さずに直接採用の交渉を始める始末。
 え?個人情報をさらけ出すことになるけれど、大丈夫?
 
 さらに、自給が3,500円に上がっていたにも関わらず、自給3,000円で雇ってくれという。彼女がスキルアップを重ねてきた成果が3,500円という数字に反映されていたのに。
 え?収入が下がっていいの?

 スーパー派遣であるとともに恋する乙女になってしまった春子先輩に、一視聴者としては、ただただ困惑するばかり。
 
 “働くことは生きることだ”と大前春子は言う。
 
 ドラマの各話での台詞の中には、派遣社員だけでなく働くものへのメッセージが込められていた。
 「ハケンの品格」とは「働くものの品格」に通じている。
 
 このドラマはフィクションである。

 非日常を提供するドラマであるからこそ、伝えられる真理がある。だからこそ、彼女には、ハケンとして、働くものとして貫いてほしいことがあった。

 人間は、日々様々な顔を見せていく――。 

 もちろん恋に生きる大前春子も大好きなのだが、ヒーローだと信じていたウルトラマンの中から人間が出てきてしまったときのような残念な気分を味わった。
(敬称略)

「食の安全」の裏で

小学校の頃、揚げ足取りが好きな男の子が授業でこんな質問をしていた。
「夜中の12時にジュースを飲んでいて、12時を過ぎたらそのジュースは飲めなくなるんですか〜?」
不二家の不祥事が発端となり、賞味期限が過ぎた原材料を含んだものを販売した企業の謝罪が続いた。
程度の差はあれ、杜撰な管理に驚くとともに、「食の安全」に対する日本人の過敏な反応を再認識してしまう。
 
戦中・戦後の食糧難はどこ吹く風。今や食べ物は溢れ返らんばかりだ。日本国民の目は厳しくなり、中身へのこだわりが出てきた。

そのこだわりの中、日本人は毎日膨大な量の食物を捨てている。

日本は、世界で最大の食料純輸入国にもかかわらず、毎日300万人分以上の食物を捨てていると言われている。家庭から出る生ごみの約4割が食べ残しであるが、そのうち約3割が手付かずの食品だ。なんと、その手付かずの食品の半分以上は、賞味期限前のもの。スーパーマーケットやコンビニエンスストアでは、賞味期限を時間単位で管理し、売れ残りは流れ作業のように廃棄される。このような例は枚挙に遑がない。
 
‘少しぐらい賞味期限が過ぎていたって、食べられるのに『もったいない!』’と思ってしまう。

もちろん食品管理を怠った企業は許されるべきではない。‘少しぐらい…’という気持ちが杜撰な管理を招き、消費者が食中毒を起こすに至った例もある。
 
だが、私たちが「食の安全」を追い求める一方で、大量の食べ残しを生み続けているのも事実だ。

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ご飯は残して外国(よそ)から仕入れて 平和でいいな戦争の無い国
 
「アンダーシャツ」Mr.childrenより

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働くおなごとして考えた

 働く上での男女平等って何だろう。

 社内での出世について考えると、私が勤める企業では、階級が上がる(出世する)ためには、最低限その階級にいる年数(3年〜)とその階級での良い評価を得ることが必要だ。もちろん飛び級もなければ、降格もない。
 外資系企業をはじめ、異なる制度を持つ企業は多いだろうが、私が勤めている一般的な日本企業は、このように年功序列成果主義ブレンドされている状態だ。

 産休・育休を取得した場合は、評価対象の年数にはカウントされないので、自ずと階級が上がる速度が遅くなる。

 男性から見れば、純粋に働いている年数は産休・育休を取っている女性よりも多い。昇進に際して、対等に扱われては、平等とはいえないかもしれない。

 では、育休を取った女性は、出世レースからは脱落することを意味するのだろうか。

 昨年の7月5日、『「次世代育成」に関する啓発セミナー』なるものが会社で開催され、有名な女性弁護士の講演も行われた。

――産休・育休を取った女性が、男性よりも出世のスピードが遅れてしまうことをどう思うか?
と尋ねたところ、 

 「あなたの会社は恵まれている。出産をするからといって、女性が退職に追い込まれることはない。女性が働かせてもらえるだけでもありがたいことだと思わなければいけない」という答えだった。

 一般的には、出産を機に7割もの女性が退職しており、職場復帰をしてもなかなか現場に溶け込むことができない人が多いという。

 一方、男性が育休を取っている割合は、1%にも満たないのだ。むろん女性よりも男性の方が育休を取得しにく風潮であることも否めないだろう。

 そして、性別がどちらにせよ育休を取れば、過酷な出世レースでは不利に働くのだ。会社から見れば、‘社員が産休・育休を取る=労働力の低下’を意味するのだから、当然の対応かもしれない。会社は、自社の利益を確保することに注力する。
 
 少子化となると、子どもを産み育てることが“社会貢献”だということが声高に叫ばれる。

 会社に貢献するのか、日本社会に貢献するのか。
 サラリーマンに悩みは尽きない。