占いはいらない!?

細木数子は当たるよ」。
友人にこう言われ、六星占術に興味がない私もついつい自分の運命の秘密を解き明かしてみた。
マズイ!どうやら来年から大殺界に入るらしい。居ても立っても居られなくなる。だが、ふと思い出した。

――そういえば、以前、他の東洋系の占いで今年から運勢が上向くと言われていたじゃん

あれはウソだったのか。いや、細木数子がペテンなのか!?何が何だか分からなくなってしまう。

見渡してみれば、占星術、夢占い、トランプ占い、動物占い、家電占い・・・と私たちの周りには、あらゆる“占い”が溢れている。どの占いにすがってよいのか、どれも自分のことが言われているようだし、逆にウソっぽくも感じる。血液型占いに至っては、私たちの性格はもとより、運命が4つに定められてしまう。

未来は誰にも分からない。

中学生の頃に読んだ『未来のうてな』(日渡早紀 著)の「未来は背中からやってくる」という言葉が印象に残っている。

人は人生という道を後ろ向きに歩いているという。後ろ(過去)は一本道で常に見えているが、前(未来)は見ることはできない。だから、前に進むことが不安なのだ。

不安が故に、何かに頼りたくなる。自分が進むべき道を見定めたくなる。迎えるべきことが、何なのか知りたくなる。例え、それが良くないことだとしても。

だが、前(未来)を振り返ることができると、道を選ぶこともできてしまう。私たちが後ろ向きに進んでいる道は、様々な方向に広がっている。どの道を進むのか選択できないようにするため、「未来は背中からやってくる」のだといえる。

人は背中に広がる無限の未来を一本にして紡いでいるそうだ。

どのような未来を体験していくかは、その人の紡ぎ方による。本来、未来とは自由なものなのだ。

“未来は自由”。こう思える心を常に持ちたいと思う。

そんな中、会社に向かう私に母が言う。
「アンタ!今日のフジテレビの星占いで12位だったわよ!!」
おぉ、今日もヤバイな。

ところで、占い師に資格ってあるのだろうか。
(敬称略)

私の心のオアシス

地下鉄有楽町駅出口。「ぽんたの広場」の前を通る度に、いつもある人物が心に浮かぶ。
その人物は、一昨年に還暦を迎えた。40年前はスリムで美しい容姿だったと主張するが、もはや見る影もない。今や中年太りを通り越し、お腹のラインは特有の曲線を描いている。「ぽんたの広場」に飾ってある信楽焼の中に紛れていても分からないほどだ。まるで狸。
ところが、その狸は、ただの狸ではない。
なぜか、私の顔を見ただけで私の体調が分かる。私の声を聞いただけで私の気持ちを察する。今、私が誰に恋をしているのかを見抜いている。イヤなことがあって帰ってきても、その狸に話せば心が浄化されていく。
25年間いつも私を見守ってくれているからだろうか。いや、そんな簡単には説明できない。世界で一番、私を理解してくれている狸。
母親はいつの時代も偉大だ。

満員電車はつらいよ

――世の中に無駄なものはない。

こう思えても、どうしても満員電車だけは、無駄に思えて仕方ない。

「勤労者が生涯に電車で過ごす時間 ――2年3カ月」という『週刊東洋経済』2007年2月24日号の中吊り広告を目にしたときは、愕然とした。

この数字は、通勤時間の片道を1時間とし、250日/年×40年で算出したものである。

“会社に行く”のはいいけれど、“満員電車”がイヤだという人は多いのではないか。

人間も含め、動物には、パーソナルエリアというテリトリー意識のようなものが本能的にある。心理学的にも受け入れられている概念上のエリアで、自分を中心として円の空間があり、その境で「自分のエリア」と「外のエリア」とに分けられる。

個人によって、パーソナルエリアの大きさは千差万別だが、乗客が密着せざるを得ない満員電車の中では、誰しもパーソナルエリアに侵入されまくりである。だから不快になるのだ。

そして、そういうときに限って、電車が遅れる。「後続列車が遅れている関係で、この列車も○分遅れております」と車掌さんに言われても、乗っている電車が、山手線のような環状線でなければ、この理由は解せない。
イライラ。

さらに、そういうときに限って、電車が急ブレーキをかける。ハイヒールでは安定が悪いので、ふらついてしまう。人がドミノのように押し寄せてくるときは、勘弁してくれと思う。もちろん、そんなスペースすらなく、サンドイッチのハムのようになるときもあるが。朝ご飯が無事に消化できるか心配になってしまう。
イライライライラ。

国や企業のお偉い方々のほとんどは、通勤ラッシュに遭わず、ご出社されるようなので、対策もなかなか進まない。

満員電車を避けるため早く出社すればいいだろうが、そこまでの気力はない。

今日でゴールデンウィークが終わる。明日から、また、あの拷問に耐えなければならないのか。ふぅ。

ハイヒールはつらいよ

ハイヒールなんて誰が考えたんだろう。
営業活動で毎日スーツを着ていると、合わせる靴は自ずとハイヒールになる。が、私は踵の高い靴は、大の苦手である。

ハイヒールは安定が悪い。
その安定の悪さで引き起こすものは、外反母趾、足の関節の痛み、骨格変型、頭痛、血行障害など、挙げればきりがない。
かくいう私も足は冷えやすいし、社会人になってから爪の形も変わってしまった。長時間立って、ハイヒールを履いたまま話をしているときは足が痛くなってきて、会話どころではなくなる。足に合わないハイヒールを履いて腰痛を患ったこともある。散々だ。許されるならば、毎日スニーカーで通いたい位である。

ハイヒールは、つくづく活動的な用途には使えない靴だと思う。
自転車も漕ぎづらい。急ごうにもスピードよりも安定を求めてしまい走りづらい。

ピンヒールなどもってのほか。アスファルトの舗装路で、すき間に引っかかることがあろうものなら目も当たられない。

そもそもハイヒールは、紀元前400年代のアテネで、背を高く見せるため、男女ともに利用していたと言われている。
17世紀のフランスでは、ルイ14世が背を高く見せようとハイヒールを愛用していた。また、当時のフランスにはトイレが無かったため、町中に汚物が放っておかれていた。そこで足元が汚れないよう、地面を踏む面積が少ないハイヒールが普及されたのだ。やがてナポレオン戦争が始まると、靴に機能性が求められ、男性はハイヒールを履かなくなったという。

企業戦士(?)は、やはりハイヒールを避けるべきか。

けれど、身長155cmの私は、かかとの低い靴を履くと見栄えが悪くなるような気がする。

「お洒落は我慢よ!」とピーコが言っていた。

やっぱり女性の横を歩くときにペースを合わせてくれる男性がいい。

(敬称略)

自転車はつらいよ

私は毎日のように自転車を使っているが、最近の自転車は肩身が狭い。

軽車両である自転車はもともと、車道を走っていたが、昭和40年代、自動車との接触事故が多発したため、一部歩道での自転車の走行が認められた。だが、近年、歩行者と自転車の事故が急増している。

警察庁は30年ぶりの道路交通法の改正作業に着手しているらしく、自転車が走るのは歩道か車道か、議論が続いている。
車道を走れば、車が我が物顔で走り、歩道を走れば、歩行者が我が物顔で歩いている。狭い日本。自転車は一体どこを走ればいいのか。

自転車にも、道路交通法の規制がある。飲酒運転は、もちろんのこと、傘差し運転や無灯火走行も処罰の対象であるし、左折・右折の際の腕での合図を怠ると罰金となる。

自転車は歩行者に対してベルを鳴らしてはならない。だが、ベルを装備することも義務付けられている。ベルは、自動車に対して鳴らせという意味なのだろうか。車道の喧騒の中、ベルを鳴らしたところで、ドライバーの耳に届くかどうかは疑問だ。

やっとの思いで、自転車を走らせ駅に着いても、今度は駐輪場がない。ふと道路脇の看板を見れば、駐車違反対象区画は着々と広がっている。歩行者の邪魔にはならないような場所でも、赤いラインが引いてある。やむを得なく違反をすれば、自転車撤去の制裁が下る。

自転車は排気ガスも出さないし、今流行りの“エコ”な乗り物。もう少し居場所を作ってもよいと思うのだが・・・。

Zzz・・・

私は、みのもんたがうらやましい。何もギネスブックに載るほど、テレビの生番組で喋りまくりたいという訳ではない。
彼の睡眠時間は平均3時間なのだ。

かくいう私の平均睡眠時間は平日であれば7時間半程度。もちろん休日は、半日近く眠っている。

夜中の12時を過ぎると、ウルトラマンよろしく頭の中でランプが点滅しだす。日付が変わってから眠りにつくと、決まって翌朝は集中力が鈍くなってしまう。

小さい頃から「睡眠時間が少なくても平気」という人を見ると、自分にはない能力を有していることをうらやましく思ってきた。

年月は、誰に対しても平等に流れていく。

「睡眠時間が少なくても平気」なショートスリーパーは、その年月を有効に活用でき、「許されるならばいつまでも眠っていたい」ロングスリーパーは、人生の多くをロスしている気がしてしまう。

ナポレオン1世は、睡眠時間が3時間もあれば事足りていたらしい。やはり、睡眠時間が短い方が、多大なる功績を残せるのかと思いきや、かのアインシュタインは、毎日10時間以上眠っていたそうだ。

「睡眠は時間の浪費に過ぎない」と発明王エジソンは言う。一方、ダライラマは、「睡眠は最高の瞑想である」という言葉を残している。

人生において、睡眠に捧げた時間の差が、その価値観までも違えているのかもしれない。

そういえば、私は眠ることが大好きだ。

人に必要な睡眠時間の差は、遺伝的な要素が大きいという。ふと横を見れば、母親が気持ちよさそうにソファで昼寝をしている。

さて、私も一眠りしようか。
(敬称略)

たらればロマンス

先週(2007年4月16日)からスタートした月9ドラマ『プロポーズ大作戦』。山下智久演じる主人公が、ずっと想いを寄せていた幼なじみ(長澤まさみ)に告白すべく過去に戻ってやり直すというストーリーだ。

私にも戻りたい過去がある。

このブログを読んでくれているあなたは、どうだろうか。それは、ドラマのように恋愛かもしれないし、仕事や学業のことかもしれない。日常のほんの些細なことでもいい。

歴史を語る上でも、人は“源義経が生きていたら・・・”とか、“本能寺の変が起きなければ・・・”、などと“たられば”を想像することが好きである。

歴史に“if”がないように、私たちが送ってきた人生にも“if”はない。
それは充分理解していても、“あのとき、○○だったら”、“あのとき、△△していれば”と考えずにはいられないことがある。大なり小なり悔いのない人生などないだろう。

過去に縛られすぎるのはよくない。悔いがあるからといって、幸せな人生が送れないということでもない。
しかし、自らが送ってきた人生をふと振り返ったとき、人は「たらればロマンス」に浸ってしまうのだと思う。

過去をやり直すことができないのが現実。
せめてドラマの中では、ハッピーエンドで終わってほしい。

(敬称略)